某相国宛 弘仁七年十二月二十七日 その4
藤原真川にかわって、その師の浄村宿禰浄豊を某大臣に推薦する
書状。
(弘仁7年(816年) 12月27日 空海43歳)
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(本文)文雅、心を陶(みが)き廉貞(れんてい)、素を養う。
去むじ延暦中に天恩に駿州の録事に沐し、次いで親王の文学に
遷(うつ)る。忽ちに事変に罹(かか)るに遇うて、進仕の途
窮(きわま)れり。
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(訳)格調高い文才で心を磨いて人物的、精神的に優れた者に
ございます。延暦年間に聖帝の御恩をいただき駿州の書記官に
任じられ、ついで伊予親王の侍講に任じられましたが、伊予親
王の謀反の事件にあいまして仕官の途が途絶えました。
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*少し余談の話ですが……….
伊予親王の謀反の事件にあい仕官の途が途絶えたあたり叔父の
阿刀大足と同じです。この頃は空海は唐から帰ってきて九州の
大宰府で天皇の差配を待っている最中であります(大同2年、
807年)。
空海の渡唐に際してこの叔父は伊予親王に願い出て空海を、
遣唐使のメンバ-になれるよう尽力したはずであり、その叔父
が空海に助けを求めて着のみ着のままで当時、帰京を許された
空海がいた和泉国の槙尾山寺まで逃げてきます。
空海は叔父の阿刀大足を平然とかくまいますがこのあたり何と
もいえない剛毅さが伺えます。少し間違えば空海も嫌疑をかけら
れるはずですが、この豪胆な自信はどこから出てくるのでしょう
か。
阿刀大足はこれ以後、空海の庇護を受け京都の東寺の俗別当と
いう職につきその後、代々子孫の方がそれを続け、なんと1,100
年の間、明治の初めまでその職にあり、今なお、東寺周辺に子孫
の方がおいでるそうです。空海の徹底ぶりはすごいものがあると
思いました。
空海の渡唐に際してこの叔父は甥のために尽力したと思います
が、ここまで徹底できるものでしょうか。空海の小さいときから
の詩文の師でありこの叔父が居なければ、この空海の才能は生ま
れなかったとすれば、空海に特別な思いがあったのでしょう。
高野雑筆集 某相国宛 弘仁七年十二月 その4
空海 高野雑筆集 
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