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高野雑筆集 某相国宛 弘仁七年十二月 その2

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空海 高野雑筆集  
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某相国宛 弘仁七年十二月二十七日 その2
 藤原真川にかわって、その師の浄村宿禰浄豊を某大臣に推薦する
書状。
           (弘仁7年(816年) 12月27日 空海43歳)
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(本文)如今(いま)、故(もと)の中務(なかつかさ)卿の親王
の文学、正六位上の浄村宿禰浄豊は、故(もと)の従五位上、勲十
一等、晉卿(しんけい)が第九の男なり。父晉卿(しんけい)は遥
に聖風を慕いて、遠く本族を辞す。両京の音韻を誦して三呉の訛響
(かきょう)を改む。口には唐言を吐いて、嬰学の耳目を発揮す。
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(訳)いま、もとの中務省の長官で伊予親王の侍講である正六位上
の浄村宿禰浄豊はもと従五位上で勲十一等の晉卿(しんけい)の九
男です。父の晉卿(しんけい)は唐から聖帝を慕いて、日本に来ま
した。二つの都である長安、洛陽の正しい唐語の発音に通じて唐の
南にある呉群、呉興、丹陽の呉音の訛を改め、唐語を話して学生を
教えました。
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*ここで管理人の私が注目する記述があります。浄村宿禰浄豊の
父親である晉卿という人です。手元の資料では晉卿は天平7年
(735年)に遣唐使と共に日本に来たことになっています。空海
が都に上ったのが延暦10年(791年)ですから、晉卿という人の
没年がわかりませんが日本に来たとき20歳だったとしても、空海
が都に来てすぐに出会ったとすれば晉卿は70歳代であっただろう
と思います。存命であったとすれば、この晉卿という人から中国
語学んだように考えられます。伊予親王の侍講というのは空海の
叔父である阿刀大足も同じであり晉卿の子の浄村宿禰浄豊も空海
にとってはごく近い存在であったはずです。文中「両京の音韻を
誦して三呉の訛響を改む。口には唐言を吐いて、嬰学の耳目を発
揮す。」という記述からしても空海は実際に晉卿という人の講義
は聞いたような書き方になっています。また「三呉の訛響を改む
。」とはこれは実際に長安、洛陽の言葉と呉群、呉興、丹陽との
言葉の発音の違いを聴いた人でないと書けないのではないでしょ
うか。
 「嬰学の耳目」とは生徒だった空海自信のことではないのかと
思います。空海は外国語の唐語を学ぶ学科には属していなかった
はずですが話を聴くことは可能であったはずです。
 もし晉卿ではないとすればその子の浄村宿禰浄豊が空海の中国
語の先生だったのでしょう。その方が叔父の阿刀大足も伊予親王
の侍講という関係から、そして本人のために推薦状の代筆までし
ているということからしても自然かもしれません。

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