陸州の徳一宛に密教経典35部の書写を依頼する書 その1
(弘仁6年(815年) 4月5日 空海42歳)
常陸の僧徳一(天平宝字4年(760年)? - 承和2年(835年)?)は
、法相宗の僧で奈良の仏教の腐敗を嫌い東国へ下った。空海に密教
経典などの書写・布教を依頼されるも疑義をもったとされ空海や最
澄に批判的であったとされている。
*******************************************
(本文)摩騰(まとう)遊ばずんば、振旦久しく聾し、康会(こうえ
)至らずんば呉人長く瞽(めしい)ならむ。聞道(きくならく)、
徳一菩薩は戒珠氷玉(かいしゅひょうぎょく)、智海泓澄(ちかいこ
うちょう)たり。斗藪(とそう)して京を離れ、錫を振って東へ往く。
始めて法幢(ほうとう)を建てて衆生の耳目を開示し、大いに法螺を
吹いて万類の仏種を発揮す。
———————————————
(訳)摩騰(中インドの人で63年に後漢に始めて仏教をもたらした)が
中国に仏教をもたらさなかったら中国の人は長い間、瞽者であっただろ
うし康僧会が三国時代の呉(247年)に仏教をもたらさなかったら呉の
人も長く盲目であったことでしょう。伝え聞く所によりますと徳一菩薩
はまるで氷玉のように清らかに戒律を守り、またその知恵は深く澄んで
いるとお聞きしております。京の塵を遠く離れ、錫杖を振って東国に
行かれました。そこで始めて仏教の旗をたて衆生の耳目を開き大いに
法を説き万人の持っている仏心を起こされました。
*******************************************
*現在では「大いに法螺を吹いて」などと書いたら大変ですがもともと
いい意味だったのでしょう。
高野雑筆集 陸州の徳一宛 弘仁六年四月 その1
空海 高野雑筆集 
コメント