空海は予知能力があった?
学問においては幼少期から母の弟の阿刀大足につい
て学んでおり、阿刀大足は桓武天皇の皇子の家庭教
師という侍講となる人であり当時の大学者であり、ま
た当時の大学には讃岐出身者の教授が何人もいた。
この辺も幸運の一つであろうと思います。
司馬遼太郎氏はこのあたりをその著書「空海の風景」
で”親王の侍講が叔父であるという幸運は田舎出身の少
年がざらに恵まれるそれではない。”としています。
都で学問する環境としてはこれ以上の者はないと思い
ます。ここまでは秀才としての空海です。
しかし、大学を飛び出し、乞食同然の私度僧となり虚
空蔵求聞持法の修法で「谷響きを惜しまず、明星来影す」
と「三教指帰」に書いてそれなりの効果があったことを
表して記録の上からは姿をくらましてしまうのです。
しかし実際には自分の独自の密教を構築していたので
しょうし、それが後に渡唐後、恵果和尚に会って正純密
教に合致していることがわかるのですが、このあたりは
だれかが、密教の手ほどきをしたのだろうと思います。
これは、普通の人のできないような恐ろしいほどの修
行だったのではと思います。
「三教指帰」を書いたのが24歳で、31歳で遣唐使船に乗
るまで記録は沈黙します。
以下の内容は空海が超人的な人であった内容になります
が空海の行った虚空蔵求聞持法は、単に記憶術を高めるよ
うな類のものではなくそれ以上の天地さえ動かせるものだ
ったのではないかとさえ思います。
ここからが空海がまるで自在に人や時間を動かせ
たとしか思えないことが始まります。
第18回遣唐使は延暦23年(803年)4月16日
にいったんは出発するのだけれども暴風雨に遭ってそれが
延期されます。このとき空海はこの船に乗っていません。
空海はこの遣唐使船の出発を知らなかったとは思えま
せん。空海が独自に研鑽を積んだ密教が殆ど完成して
いたのだと思いますが、いま一つの部分もあったのだろ
うと思います。空海はこの遣唐使船の出発を空海がどこで
どうみていたのか。暴風雨で延期されたとなっていますが
旧暦4月であってもまだ台風の時期ではなく、まるで空海
がこの出発を引き留めたようにさえ思えます。
空海が乗り込んだ船は延暦24年(804年)7月6日
に九州から出てます。この短い間に官僧では無かったはず
の空海があわただしく僧になり乗り込む手続きをしなければ
ならなかったはずであり、僧になって遣唐使のメンバ-にな
ることついて母の弟の阿刀大足や他の大勢の助力を得たはず
であろうと思われ、これも神業だろうと思います。
さらに出発した4隻のうち空海と最澄が乗った船だけが唐
に着きあとの2隻は難破してしまうのです。
最初の暴風雨で乗員が欠け通訳としていったのではないか
という説もあるようですけれど、それでは最初中国に漂着し
た時に通訳として空海が出てきておらず長く船が足止め(約
50日も)されていたことを思うと、おかしいと思われます。
漂着したときに出した空海の書いた書簡(大使の藤原葛麻
呂にかわり、福州の長官へ嘆願書を代筆(『大使のために福
州の観察使に与うる書』))を見て観察使の態度が一変する
のですが、なぜ最初からそれをしなかったかのか。
空海の書いた書簡は「性霊集」に残っているから、空海が
いつも書簡は常に2部書いて1部は保存しておくということ
になるので、その周到な性格がうかがい知れます。
最初から結局は自分が嘆願書の代筆をすることになること
がわかっていたのではないでしょうか。当然、書も自分が書
くことになったはずです。


コメント
はじめまして
真言僧です。こちらのブログは興味深く拝見させていただきました。
また参ります。