空海は密教習得の計画に呪をかけたのでは
ないかという気がします。とんでもない空想
かもしれませんが空海が唐に居たのは2年程
度なのです。また師の恵果に会って3ヶ月で
その体系を根こそぎ譲ってもらいその年には
恵果は死んでしまいます。さらに来ないはず
の遣唐使がやってきて、そのまま帰れる運び
になります。運がいいだけでは説明できない
ように思います。
空海の人間くさいところは後に三筆の一人
の橘逸勢も一緒に連れて帰るところです。こ
の時、橘逸勢自信が唐皇帝に上奏する文章を
空海が書いているところをみるとよほど唐で
は、いや遣唐使の出発から懇意であったと思
われます。しかし文章自体は悲惨さを訴え、
「・・・螻命をがくに転ずるに・・・・」
とオケラが溝にはまっ苦しくもがいていま
すと非常に容赦ない調子で書いています。
帰国してからの橘逸勢と空海そして
嵯峨天皇交流は終生と続きます。
空海が橘逸勢のために文章の代作をし
たように空海は関係のある人には非常に
丁寧な対応をしています。高野雑筆集
をみても高野山の設立時には米、味
噌などを寄進してくれた人には丁寧
に礼状を書いているところなどをみても
情厚い人だったんだなと思います。

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