「大般若波羅蜜多心経」という、すなわちこれ大般若菩薩の大心真言三摩地法門なり。
今まで何回も読んでみようと思い読んでは難解過ぎて途中で放り出していました。今回はもう少ししっかりと読んでみようと思います。
般若心経秘鍵 遍照金剛 撰
第1章 総説
第1節 序論
序-1
文殊の利剣は諸戯(しょげ)を断つ
覚母(かくも)の梵文は調御(ちょうご)の師なり
チクマン(サンスクリット文字 チク マン )の真言を種子となす
諸教を含蔵する陀羅尼なり
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文殊の利剣はもろもろの無益な議論を断つ。般若菩薩の梵語の経は仏道へと導き救済する。般若菩薩のサンスクリット文字チクの種子と文殊菩薩のサンスクリット文字マンの種子はそれぞれたくさんの教えを含んでいる真言である。
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序-2
無辺の生死をば如かんがよく断つ
ただ禅那と正思惟(しょうしゆい)とのみあってす
尊者の三摩は仁譲らず
我、今讃述す哀悲を垂れたまへ
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限りのないような生死をどのようにしたら断てるのか。その方法とは揺がなくなった心の状態と正しく考え判断すること以外にない。みほとけは尊者の悟りを他に譲らず説かれている。私は今から述べるのでどうかみほとけよ、お力をお貸しください。
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序-3
それ仏法、はるかにあらず、心中にしてすなわち近し。
真如、外にあらず、身を棄てて何(いづく)んぞ求めん。
迷悟、我に在(あ)れば、すなわち発心すればすなわち至る。
明暗他にあらざれば、すなわち信修すれば忽ちに証す。
哀れなるかな、哀れなるかな、長眠(ちょうみん)の子。
苦なるかな、痛なるかな、狂酔の人。痛狂は酔わざるを笑い、
酷睡は覚者を嘲る。
かつて医王の薬を訪(とむら)はずんば、いずれの時にか
大日の光を見ん。
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仏の教えは遙か彼方にあるものではなく、自分の心の中にすでにある。真理は体の中にあるので身を棄ててなど求められるものではない。迷いや悟りは自分の中にあるのだから悟りを求めようとする心をおこせばたどりつけるのである。明るい悟りと暗い迷いはすべて自分から起こっている。仏の教えを信じて実行すれば悟りの世界はすぐさま目の前に現れる。
哀れなことよ、哀れなことよ。眠りこけいるものよ。苦しいことよ。痛ましいことよ。迷いの世界に酔いしれているものよ。酔いしれている人は酔っていない人を笑い、眠りをむさぼっている人はめざめている人をあざける。名医を訪ねて薬を手に入れなければ病気を治すことができないようにいつまでも迷いの世界にいるようではいつまでも大日如来の光明を見ることができない。
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序-4
しかしのみならず毉障(えいしょう)に軽重あれば覚悟に遅速あり。機根不同なれば性欲もすなわち異なり。つひんじて二教轍(あと)を殊んじて手を金蓮の場に分ち鑣(つくばみ)を並べて蹄を幻影の埒に躓(つまづ)かす。その解毒に随って薬を得ることすなわち別なり。慈父導子の方、大綱これに在りや。
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加えて真実を見る眼を覆い隠す眼病は人によりその軽重がある。また悟りを得るについ遅速がある。能力は人によって違い性格も欲望も異なる。密教では車の両輪のように金剛界と胎蔵界に区分された場になっている。顕教では華厳、三論、法相、縁覚、天台の五乗の教えにおいても、おのおの馬に鞍をつけ幻や影のような教えの柵の中で蹄をあげている。解毒剤としてこの薬が良い、この迷いにはこの教えが良いといろいろあろう。仏が我々を導く方法の大要はやさしい父親が子供を導くようなものであろう。
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空海が顕教より密教が優れているのだと自信をもっているところです。
序-5
「大般若波羅蜜多心経」という、すなわちこれ大般若菩薩の大心真言三摩地法門なり。
文(もん)は一紙に欠けて行はすなわち十四なり。いうべし。簡にして要なり。
約(つづま)やかにして深し。五臓の般若は一句にふくんで飽かず。七宗の行果は一行に
飲んで足らず。
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「大般若波羅蜜多心経」というのは大般若菩薩の心髄の真言の悟りの教えである。文章は1枚の紙を満たすほどでは無く行数は14行に過ぎない。簡にして要をえている。簡にして内容が深い。経・律・論・般若・陀羅尼の5種類に分類された聖典群にある悟りの知恵(般若)の教えは「深般若波羅蜜多」の1句のうちにことごとく含まれていて尽きることがない。華厳・三論・法相・天台・声聞・縁覚・と真言密教との七宗のそれぞれの教えの修行の成果は「三世諸仏依般若波羅蜜多」から「三菩提」に至るまでの1行に余すところなく飲み込まれている。
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空海は「三世諸仏依般若波羅蜜多故得阿耨多羅三藐三菩提」が心髄だと言っています。この部分は諸説の解説があるでしょうが「過去・現在・未来の仏様も、この“智慧の完成”によって、目覚められた」というのが一般的でしょうか。過去・現在・未来の仏様というのはなにも他ではなくそうなれるはずの自分自身ではないのでしょうか。それは直前にある「心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃」 智慧の完成には何の妨げもない。妨げがないので恐れもない。障害を作り出している自分自身だということではないでしょうか。


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