序-10
ある人問うていはく、「般若は第二未了の経なり何ぞよく三顕の経を呑まん」「如来の説法は五条の義を含み一年に三蔵の法を説く。いかに況んや一部一品、何ぞとぼしく、何ぞなからん。亀卦、爻著(げいし)万象を含んで尽くることなく帝網、声論諸義を呑んできわまらず」難者のいわく「もししからば前来の法匠、何ぞこの言葉を吐かざる」
答ふ、「聖人の薬を投ぐること、機の深浅に随ひ、賢者の説黙は時を待ち人を待つ。吾、いまだ知らず。けだし、いうべきをいわざるか。いうまじければいはざるか。いうまじきこれをいへらん(失)とが、智人断りたまえまくのみ」
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ある法相宗の人が質問する。「すべての経典は大きく三つに分かれる。第一時有経と第二時空経と第三時中道経である。」「般若経」は第二の空経でありすべてを論じ尽くしているのではない。どうしてすべてを明らかに論じおえている第三の中道経までを含んでいることがありえようか」と。答えていう「仏の説法はきわめて深遠であり、わずか一字の中にも一般の人に対する教え、神々に対する教え、真理を聞いて悟る人のための教え、独自に悟る人のための教え、他人を悟らせようと努力する人のための教え、という5種類の教えを含んでいる。そうして一瞬の間に悟りへの教え悟りのために守るべききまり、それらを解説したものなど、あらゆる教えを説くのである。だから経文の一部でも一説でもあれば、多くの教えがふくまれていることになる。説き足りないということはない。
これはあたかも亀の甲や草の茎で作ったちっぽけな占いの道具によってありとあらゆる現象が占われまた帝釈天宮にかかる網についている宝珠にすべての事実が映じあるいは文保書の中にあらゆる言葉の使用法がふくまれているようなものである。
この点について質問する人が言う。「もしそのようであるならば、どうして過去の仏教の学者が「心経」がそれほどまで深遠であることをろんじなかったのであろうか」と。答えて言う。聖人が教えを述べる場合には、教えを聞く人々の素質に応じて説くのである。賢者が教えを説かずに黙っていることがあるが、それはすべて適当な時がくるのと、受けるにふさわしい人が表れるのを待っているのである。「心経」の場合、その深遠な先人たちが説くべきであったのに説かなかったのか、説くべきでなかったから説かなかったのか、私はいまだ知らないのである。私がこれを解き明かすことが言うべきでないことをいう過失になるのかどうか、このことについては智慧ある人の判断を仰ぐばかりである。」
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