延暦23年(804年)に日本を離れて翌延
暦24年(805年)に恵果に会いわずか3ヶ
月で密教を根こそぎ譲り受けその年の12月に
恵果は入滅します。あわやというところでタイ
ミングがいいというか偶然とは思えないような
事がこの先もどんどん起こります。
翌延暦25年(806年)の始め師の恵果の
ために碑文を撰します。
恵果の門弟千人を超える中から密教の正嫡
になったとはいえ異国人の空海が書も文も任
されたのです。これは当時の長安においても
空海の書、文がいかに優れたかがわかります。
ちょうどこの後、日本では桓武天皇が崩じ
て平城天皇が即位します。
空海が長安に滞在中に当時の唐の皇帝徳宗
が崩じついで順宗が即位、しかし順宗は程な
く憲宗に位を譲ってしまいこれも死んでしま
います。
ここに日本から順宗即位の祝賀の使者が、
日本から来たのです。
しかし来たのはよかったが祝うはずの順宗
は死に慶が弔になっていました。
使者の名は高階真人遠成(たかしなのまひ
ととおなり)と言います。空海にとってみれ
ば密教は譲り受け唐に用はなかったのですが
留学期間は20年でありどうやってこの使者
に帰朝の話をしようかと考えたはずです。
ちょうど師の恵果に密教の体系を一挙に
譲ってもらおうと考えたように。ストレ-ト
に日本に帰りたいとこの使者には言わなかっ
たでしょう。 使者の高階真人遠成(たかし
なのまひととおなり)にとっても留学期間
20年と決められている者を連れて帰ると
なると、そこは官僚として問題がなくはな
いということになります。空海もその辺り
は知っていたでしょう。
そこで遣唐使の大使に願うということで
なく唐の皇帝が許すとなるとだれも文句は
言わないというのを考えたようです。
またこの日本からの使者に対しても無礼
にならないように周到な根回しをしたと考
えます。おそらくはこれが当たっていると
思います。

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