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続 三教指帰  ~時代周辺~  

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空海 三教指帰
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 三教指帰が書かれたのは延暦16年(797年)の12月1日だと
空海が自分で書いていますから空海の生まれが宝亀5年(774年)
だとすれば24歳(数え年)の時であるとなります。
 大学の入学が18歳だとしているので(延暦10年 791年)
ですから、当時は長岡京の造営の最中であっただろうし、奈良の
仏教勢力がいかにすごかったのかと思います。そして、度重なる
事件がおこり、建設の中心人物の藤原種継の暗殺などこの都を、
捨てさらに遷都するという激しい移り変わりの時代であったのだ
ろうと思うし、宮廷の中での勢力争いが盛んであったのだろうと
思います。
 大学で儒教を学んでも藤原氏でない者が宮廷で活躍できるわけ
がないのです。山上憶良は空海よりも100年ほど前の人ですが
大学の出身者であり大宝元年(701年)に遣唐使のメンバ-になって
いたはずで学問的には優秀なはずですが、彼の残した貧窮問答歌
や臨終の時に悲痛な叫び声をあげたとされるなど官吏の栄達など
とはほど遠かったのではないでしょうか。
 逆に藤原氏の子弟となるとどうしようもなくても地位や生活が
保障されるとなると、いかな空海でも我慢できないところがあっ
たのだろうと思います。三教指帰で登場する甥の蛭牙公子につい
て「性質はひどくねじ曲がり狩猟や酒、女、昼も夜もおぼれ込み
賭博ややくざ家業をしている。ぼさぼさ髪の女の召使いをみても
好色ぶりを発揮する様はさかりのついた春の馬、夏の犬であり妓
楼ではサルのようにはしゃぎ、学校にでては欠伸ばかりしている」
と書いている。これはおそらく大学の同級生で藤原氏の子弟の様
でないかと思います。このような人間でも将来は保証されている。
 空海がいかに優秀であったとしても結局はその優秀さを妬まれ
後の菅原道真のようになったのではないかと思います。
 三教指帰ではこの気持ちを「朝廷で名を競い市場で利を争う世
俗の栄達を疎ましく思うようになり靄にとざされた山林の生活を
朝夕願うようになった。軽やかな衣服をまとい肥えた馬にまたが
り高級車にのって贅沢な生活ぶりを見ると稲妻のごとき儚い人生
の嘆きがこみ上げてくる。目に触れるものすべてが私に悟りの道
をすすめ、それは吹く風のつなぎとめようにないようなものであ
る。」と書いています。
 ここで空海が感傷に満ちた詩人のような性格であれば山上憶良
の生き方を選んだのでしょうが、このとてつもない青年は大きな
運試しに出かけるのです。
 三教指帰のその序の最後において書いている「唯寫憤懣之逸気」
とは”おのれみておれ”(とは空海は言わなかったと思いますが)
我慢できないその気持ちの爆発でなかったかと思います。

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