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空海の渡唐を書いた 陳 舜 臣 「曼荼羅の人」

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空海 陳 舜臣 「曼荼羅の人」
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陳 舜臣 「曼荼羅の人」
渡唐から帰国まで中国での内容
空海の出発は延暦23年(西暦804年)7月6日(太陽暦
8月14日)だから非常に暑い真夏の盛りになる。
九州肥前の田ノ浦港から空海31歳で乗り込んだ第1船には1
20人のが乗船であるから相当の人数が乗船したことになる。
三教指帰は空海が24歳だとされているから三教指帰を書いて
7年後のことになる。

これ以前に藤原葛麻呂を遣唐大使としての詔勅は出ており出発
はしたのだけれども暴風雨にあって延期されている。
当時の空海はこの知らせをどこで聞いたのであろうか。このあと
遣唐使の一行にもぐりこんだはどうやったのであったのだろうか
と思う。無論、皇太子の侍講である叔父の阿刀大足への働きかけ
をしたであろうし、近親縁者への働きかけもしたであろうと思う。
通訳としていったという説もあるようだけどそれなら福州での観
察刺でのやり取りがスム-ズにいかなくて空海がわざわざ文章を
書いたということが納得できない。延期された船の正式メンバ-
ではなかったのではないかとも思われる。それは正式な留学生な
らすぐに長安へ向かうメンバ-の一員として赴くところ長安行き
の名簿に空海の名前が無かったらしい。したがって何かの事情で
遣唐使の欠員ができ、其の補充であったように思う。出かけた最
初に暴風雨に遭ったのだから嫌がる人が出てきて当然である。
この2年後に順宗の皇帝祝賀のための遣唐使が出るのだがこの
時は清竜寺の恵果はもうこの世の人ではなく密教は「一夏を期す
」というように3ケ月では伝わってはいないと思う。
そしてその後遣唐使が来るのは30年後になる。30年後となれ
ば空海ももうこの世の人ではない。この空海という人の運の良さ
というよりも運命までも操れたのかと思ってしまう。
一方の最澄は第2船に乗り込んだ。第2船の代表者は菅原道真の
祖父の菅原清公(キヨトモ) 。空海の船は8月10日(太陽暦
では9月17日)であるから34日 海上を漂流したことになる。

着いたところの赤岸鎮では対応することができず福州に回航
することをいわれ福州にいくと観察刺がいないとなりここで待
つことになる。観察刺の閻済美が到着後、空海の書を見て驚き
すぐに入国を許可し待遇が一変したことになっている(福州の
観察刺に与えて入京する啓「性霊集」)。旧唐書では観察刺の
閻済美を良吏としている。

唐で空海を見た大学者の馬摠はく空海を見てその才に驚いて
いる。その才能とはどんなものかというと
空海が惟上(恵果の弟子)に贈った離合詩
磴危人難行
石嶮獣無登
燭暗迷前後
蜀人不得火
第一行の磴の字を2つに割り第二行に石を最初に登を最後に持
ってきている。同様に第三行の燭の字を2つに割り第4行に蜀を
最初に火を最後に持ってきている。これを即興で作ったらしい。
これを見てその才能に驚い馬摠が空海に作った詩
何乃万里来***何ぞ万里より来る
可非衒其才*****そのさい衒うにあたわざるべし
増学助玄機******ますます学んでげんき(仏教のこと)を助けよ
土人如子稀*******土人(地方人)の君がごとく稀なり
馬摠は徳宗皇帝の弟の李連の傳(おもり役)となっている。

空海が投宿した西明寺では在唐30年の永忠がいた。彼は光仁
天皇の宝亀初年の留学生で仏教音楽の声明を伝えたとされており、
司馬遼太郎の「空海の風景」では三論を極めたとなっている。
永忠は遣唐使船ではなく私船に乗じて渡ってきたのではないか
とされている。帰朝後空海と親交を深めている。
西明寺は牡丹がきれいなところで空海より2歳上の白楽天の詩
で紹介されている。
恵果は不空の弟子であり不空から密教を学んだが俗界のことで
ない金剛頂教(不空訳)を学んでも俗界からの人の交わりを深めた。
大日教は善無畏の訳である。恵果も学んだが善無畏の最高の弟子
は一行であり彼は自分の意見も交えて科学的考証もしている。
一行は天文学にも優れていた。 一行は俗界のことを研究したが恵果
とは違い俗界とのつながりを避けた。
空海の当時、今日まで残っているような宗教はすべて出尽くして
いるので当時の世界都市長安でさまざまな宗教(イスラム教(中国
ではイスラム教寺院は清真堂と呼ばれた)、キリスト教(最初はキ
リスト教も波斯寺と呼ばれたが拝火教寺院も波斯寺でありこれでは
混乱するのでキリスト教寺院は太秦寺と呼ばれるようになった。
このころのキリスト教はネストリウス派キリスト教であり彼(コン
スタンチノ-プル司教)はイエスは人で神性を有していたとし(二
性説)聖母マリアは神でないとした(非神説)。今日ともなれば別
に不信感も持たないが当時としては大変な主張であったと思う。)
、拝火教など)を目にしたと思われる。
たとえば拝火教である。ゾロアスタ-は現在のカスピ海の西南の
ウルミエで生まれた。 呪術師はカリと呼ばれた(映画インディジ
ョ-ンズでもカリといっていたように思う)。 内容は善の神アフ
ラ・マズダと悪の神アンラ・マイニュの戦いである。霊魂は不滅で
あり死後の3日まで自分の遺骸のそばにとどまるがその後風に運ば
れてチンバットの橋の前の裁判官の前に出る。裁判官は3人で其の
霊魂がはかりに掛けられ善と認められれば天上に上り悪と認められ
れば地獄に堕ちる。しかし善悪の区別のつかないのが多く其の霊魂
はハメ-スタカ-ンというところで最後の救世主が来るのをまつ。
拝火教はイスラム教に破壊された。ササン朝ペルシャの滅亡と同
時に滅んでいる。空海は其の国の王朝と結ばなくてはならないこと
をここで教えられたか。
空海が帰朝して唐から持ち帰った内容を朝廷に提出した「御請来
目録」を最澄が筆写したものを見ると「ここに城中をへて名徳を訪
うに偶然にして清竜寺東塔院の和尚、法のいなみは恵果阿闍利に遇
い奉る。」となっている。

文章の表現としてはいかにも偶然にあったようになっているけれど
も門弟千人を数える人と偶然に会おうはずがなくいかにも人を食った
言い方である。しかし案外、逆の言い方をすれ清竜寺の恵果の門弟で
ある談勝と志明にすでに恵果に会う前に知己を得ており虚空蔵菩薩求
聞持法の修行を終え、自力で唐語の習得や教典の研鑽を積みほとんど
の内容を会得しすでに梵語を学んでいたはずである空海を見て恵果の
弟子の談勝と志明が驚かないはずはなくこの二人の方から恵果の方に
話があり恵果がわざわざ会いに行ったのでなかろうかと思う。
実際に恵果の方も空海を見てこれほどの人間がいるのかと思ったに
違いない。そうでなければたった3ケ月で、伝法灌頂をし密教の正統
な継承者たる法具や仏舎利などすべてことごとくを譲り中国には其の
継承者たる証拠が残らないことをしており、さらには恵果の手配で宮
廷お抱えの絵師や鋳物師に法具を作らせている。また遍照金剛と名乗
れといっている。遍照とはあまねく照らすことであり真言第一祖の大
日如来で、金剛とは真言第二祖の金剛薩埵のことであろう。この二人
は人ではなく法身である。わが弟子に法身そのものを名前として名乗
れといっている。いかに恵果自身の寿命が短いと本人が自覚していて
も従来からいた、いわば兄弟子たちが憤慨するのがわかる気がする。

そこで珍賀なる恵果と兄弟弟子に当たる人が恵果を諌めに来る話が
「御遺告」に出てくるのだが其のあくる日、其の珍賀が空海の元に詫
びに来る話が乗っている。これは多分事実であったろうと思う。この
珍賀が其の晩、夢に四天王に踏まれたり蹴られたり散々な目にあった
らしい。この話は空海の弟子が編集した空海の言葉としての「御遺告」
にでてくるが本当のように思う。
長安での修行といっても2年たらずであり、実質的には3ヵ月程度
で一切の密教を恵果から譲られている。空海がすさまじい修行をした
と言っても古くからいる弟子たちが憤慨するのもわかる。
本当に日本にこんな人がいたのかと思ってしまう。
曼陀羅の人〈上〉―空海求法伝
曼陀羅の人〈下〉―空海求法伝

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